フランスの大手新聞社フィガロが、UBIソフトの新作ゲーム『アサシン クリード シャドウズ』に関する批判を取り上げました。フィガロの記事では、弥助を主人公に選んだことへの反発が「人種差別的なもの」として報じられています。しかし、実際の批判の本質はそれだけではありません。
弥助を主人公にしたことへの議論
『アサシン クリード シャドウズ』の主人公として、弥助が登場することが発表されました。弥助は16世紀に実在したアフリカ出身の人物で、織田信長に仕えていたことが知られています。しかし、彼が侍であったかどうかについては歴史的に断定できる証拠がなく、その解釈には議論があります。多くのプレイヤーは、「侍としての弥助」という設定に疑問を呈し、歴史的事実の歪曲や文化的誤用の問題を指摘しています。
文化的誤用とリスペクトの欠如
批判の中心にあるのは、「弥助が主人公であること」そのものではなく、日本文化や歴史に対するリスペクトの欠如です。特に海外メディアが「批判=人種差別」と一括りにしてしまうことで、問題の本質が歪められているという意見が多く見られます。
多くの日本のプレイヤーや歴史ファンは、単なるフィクションの範囲を超えて、ゲームが誤った歴史観を広めてしまう危険性を指摘しています。また、日本文化の描写が「エキゾチックな西洋の視点」によるものであり、十分なリサーチがされていない点も問題視されています。
フィガロ紙の報道と海外メディアの姿勢
フィガロ紙は、ゲームに対する批判を「人種差別的なもの」として扱い、批判の背景にある歴史的・文化的な論点を軽視しました。このような報道に対し、日本のゲーマーからは、「文化をないがしろにすることこそが問題なのに、それを批判するとレイシスト扱いされるのはおかしい」といった意見が相次ぎました。
また、イギリスのメディアでも同様の報道がなされており、批判の声を「差別問題」としてのみ切り取る姿勢に疑問の声が上がっています。
適切な文化表現とは何か?
『アサシン クリード シャドウズ』の炎上は、単なる「黒人キャラが主人公だから批判されている」という問題ではありません。適切な文化監修を行い、歴史的事実に配慮しながら創作を進めることが重要です。
過去にも、海外のゲーム作品で日本文化が「異国情緒を演出するための背景」として扱われることは少なくありませんでした。しかし、現代のゲーム市場では、より深い考証やリスペクトが求められるようになっています。
まとめと考察
今回の問題を通じて、文化表現における「リスペクト」と「創作の自由」のバランスについて改めて考えさせられます。フィガロ紙のように、批判を単純化し「人種差別」と決めつける報道は、問題の本質を見誤らせる危険性があります。
『アサシン クリード シャドウズ』の開発陣には、単なるエンターテインメントとしてではなく、日本文化や歴史に対してより深い理解と配慮を持った作品作りを期待したいところです。